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飛鳥の朝廷と律令国家の形成の一問一答と流れの解説

東アジアとの関係と朝廷の変化から律令国家の形成をたどります。まず流れの解説を読み、一問一答(30問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。

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一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。

流れの解説

推古朝の政治と隋への遣使

推古天皇の時代には、蘇我馬子と聖徳太子が政治に関わったと伝えられます。聖徳太子は厩戸王・厩戸皇子とも呼ばれ、冠位十二階や十七条憲法などの政策と結び付けられてきました。冠位十二階は家柄だけでなく個人に位を与える仕組み、十七条憲法は官人の心構えを示す法文です。豪族の氏姓の秩序が残る中で、朝廷の仕事を担う人々に共通する規範を設ける動きがありました。

607年には小野妹子が隋へ派遣されました。遣隋使に伴って留学した旻や高向玄理は、帰国後に政治の助言に関わりました。中国の統一王朝との外交は、使者の往来だけでなく制度や仏教、学問を学ぶ機会にもなりました。朝廷が官人や法を整えようとする動きは、こうした知識の受容と結び付きました。ただし後世の記録に政策と人物が結び付けられていることと、一人がすべてを実施したことは同じではありません。

乙巳の変から中央への再編

645年、皇極天皇の時代に中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を殺し、乙巳の変が起こりました。中大兄皇子はのちの天智天皇、中臣鎌足はのちに藤原の姓を受けた人物です。政変の後、孝徳天皇のもとで難波長柄豊碕宮が政治の拠点となり、大化改新と呼ばれる改革が進められました。豪族に分かれていた人々や土地の把握を、朝廷の制度へ組み替える方向が示されました。

政変そのものと、その後に続く制度の整備は区別されます。朝廷による土地と人民の把握、地方行政や徴税の再編は、命令を出しただけで直ちに完成したわけではありません。後の天皇の時代にも、戸籍や法令、官司の整備が重ねられました。大化改新という呼称で長い過程をすべて一日にまとめず、権力の交代が制度改編を進める契機となりました。

白村江の敗戦と防衛

朝鮮半島では唐と新羅が百済を滅ぼし、日本側はその再興を支援しました。663年、天智天皇の時代に白村江の戦いで倭の軍は唐・新羅の軍に敗れました。敗戦後、朝廷は西日本への侵攻に備える必要に迫られ、筑紫に水城などの防御施設を設けました。主に東国から徴発された防人も西日本の守りに当たりました。外交と軍事の変化は、国内の労働や兵役の負担にも及びました。

天智天皇は667年に近江大津宮へ都を移し、670年には庚午年籍が作られました。人民の所属を記録する戸籍は、課税や兵役を課すための基盤になります。防衛のために兵を集めることと、国家が人々を把握する仕組みは別々の課題ではありませんでした。海外での敗戦を受けた軍事的な備えと、国内の制度を整える動きが並行して進みました。

壬申の乱と天武・持統朝

天智天皇の死後、672年に皇位継承をめぐる壬申の乱が起こりました。大海人皇子は大友皇子側に勝ち、天武天皇となりました。内乱に勝利した政権は、豪族と朝廷の関係を改めながら政治の仕組みを整えました。684年の八色の姓は豪族の称号を再編する制度で、氏族を国家の秩序に位置付ける役割を持ちました。軍事的な勝利の後にも、官人や支配の制度を作る仕事が続いたのです。

持統天皇の時代には、689年に飛鳥浄御原令が施行され、694年に藤原京へ遷都しました。条坊制を備えた都は、宮と官司を置き、官人が集まって政務を行う空間でした。戸籍などの制度も継続して運用され、地方の人々から税や労働を集める仕組みが整えられました。天武朝の政策と持統朝の運用はつながっていますが、制度が整えられた時期と実際に施行された時期は区別されます。

大宝律令と官人の国家

701年、文武天皇の時代に大宝律令が完成しました。刑部親王や藤原不比等らが編纂に関わり、律は刑罰、令は行政や人々の生活に関する制度を定めました。中央には神祇官と太政官を置く官制があり、太政官は八省を統括して国政を担いました。古い豪族の協議だけで仕事を分担するのではなく、法で定められた官司と官人が政務を行う仕組みが形になりました。

律令は中国の制度を参考にしながら、日本の支配の仕組みに組み込まれました。中央の官司が命令を出し、地方で人々と土地を把握して税や労役を集めることで、都の政治と生活を支えました。氏姓の秩序を一度になくしたのではなく、従来の有力者を官人として制度に位置付ける面もありました。次の奈良時代には、この法体系を実際に運用する際の負担や土地の問題が政治の課題になりました。

官司の役割を法で定めることは、官人が代わっても仕事を引き継ぐ基準を作ることでした。税や労働を集めるには、人々の所属を記した文書を作り、中央と地方の間で報告や命令をやり取りしなければなりません。都の造営、官人の生活、軍事や儀礼は地方の生産に支えられ、制度の整備は人々の日常にも新しい義務を課しました。白村江の敗戦後の防衛と、壬申の乱後の権力の再編を経て、朝廷は軍事力と文書による行政の両方を備える国家へ変わっていきました。

一問一答

問題一覧を開き、答えの帯を押すと答えが出ます。

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  1. 1
    推古天皇の時代、蘇我馬子と協力して政治を進め、冠位十二階などの政策に関わったと伝えられる皇族は誰か。
    聖徳太子別解:厩戸王、厩戸皇子
  2. 2
    推古天皇の時代、家柄だけでなく個人の能力などを重視して官人の位を定めた制度は何か。
    冠位十二階
  3. 3
    推古天皇の時代、官人の心構えを示し、仏教や合議を重んじた法文は何か。
    十七条憲法別解:憲法十七条
  4. 4
    推古天皇の時代、607年に隋へ派遣された使節の中心人物は誰か。
    小野妹子
  5. 5
    推古天皇の時代、遣隋使とともに留学し、帰国後に大化改新期の政治にも関わった僧は誰か。
    旻
  6. 6
    推古天皇の時代、遣隋使に伴って留学し、帰国後に僧旻らと政治の助言に当たった学者は誰か。
    高向玄理別解:高向黒麻呂
  7. 7
    皇極天皇の時代、645年に中大兄皇子らが蘇我入鹿を殺した政変は何か。
    乙巳の変
  8. 8
    645年の政変を主導し、のち天智天皇となった皇子は誰か。
    中大兄皇子
  9. 9
    645年の政変で中大兄皇子に協力し、のち藤原の姓を賜った人物は誰か。
    中臣鎌足別解:藤原鎌足
  10. 10
    孝徳天皇の時代、中央集権的な政治を目指して進められた改革を一般に何というか。
    大化改新別解:大化の改新
  11. 11
    孝徳天皇の時代、大化改新の政治の拠点として造営された難波の宮は何か。
    難波長柄豊碕宮
  12. 12
    文武天皇の時代の大宝律令の官制で、神祇官と並んで置かれ、八省を統括して国政を担った機関は何か。
    太政官
  13. 13
    斉明天皇の時代、唐・新羅に滅ぼされた国を再興するため、日本側が支援した朝鮮半島の国は何か。
    百済
  14. 14
    天智天皇の時代、663年に倭の軍が唐・新羅の軍に敗れた戦いは何か。
    白村江の戦い別解:白村江の戦
  15. 15
    天智天皇の時代、唐などの侵攻に備え、筑紫に築いた堤と堀による防御施設は何か。
    水城
  16. 16
    天智天皇の時代、西日本の防衛に当たり、主に東国から徴発された兵士は何か。
    防人
  17. 17
    天智天皇が667年に都を移した、近江国の宮は何か。
    近江大津宮別解:大津宮
  18. 18
    天智天皇の時代、670年に作成された全国的な戸籍は何か。
    庚午年籍
  19. 19
    天智天皇の死後、672年に皇位継承をめぐって起こった内乱は何か。
    壬申の乱
  20. 20
    672年の内乱で大友皇子に勝ち、天武天皇となった皇子は誰か。
    大海人皇子
  21. 21
    天武天皇の時代、684年に豪族の称号を再編した制度は何か。
    八色の姓
  22. 22
    持統天皇の時代、694年に遷都され、本格的な条坊制を備えた都は何か。
    藤原京
  23. 23
    持統天皇の時代、689年に施行された法で、大宝律令に先行するものは何か。
    飛鳥浄御原令
  24. 24
    文武天皇の時代、701年に完成した律と令の法体系は何か。
    大宝律令
  25. 25
    文武天皇の時代、大宝律令の編纂を刑部親王らと進めた中臣鎌足の子は誰か。
    藤原不比等
  26. 26
    文武天皇の時代の法体系で、犯罪に対する刑罰を定める部分を何というか。
    律
  27. 27
    文武天皇の時代の法体系で、行政や人々の生活に関わる制度を定める部分を何というか。
    令
  28. 28
    皇極天皇の時代に乙巳の変が起こった年は何年か。
    645
  29. 29
    天智天皇の死後に壬申の乱が起こった年は何年か。
    672
  30. 30
    文武天皇の時代に大宝律令が完成した年は何年か。
    701

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