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平安時代前期と摂関政治の一問一答と流れの解説

朝廷の改革と摂関政治、地方支配と文化の変化をたどります。まず流れの解説を読み、一問一答(30問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。

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一度の正解は「正解済み」、別の日にも正解すると「定着」と表示します。

流れの解説

桓武天皇の都と地方支配

794年、桓武天皇は都を平安京へ移しました。新しい都の造営と東北での軍事行動は、ともに多くの費用と労働を必要としました。坂上田村麻呂は征夷大将軍として軍事行動を進め、朝廷軍に抵抗した蝦夷の指導者阿弖流為はのちに降伏しました。朝廷が支配を広げる過程は、東北の人々の生活や土地の関係にも影響しました。

軍団兵士制の縮小に伴い、郡司の子弟などから採用する健児が置かれました。広く農民を動員する制度から、別の担い手を選んで軍事や警備を行わせる動きです。国司の交代時には事務の引継ぎを監督する勘解由使が設けられました。地方で税や財物を扱う国司の仕事を点検する必要があったためで、都を移した後も、地方の行政と財政を確保することは朝廷の課題でした。

嵯峨朝の側近政治と新しい仏教

810年、嵯峨天皇の時代に平城上皇側の動きによる薬子の変が起こりました。平城太上天皇の変とも呼ばれるこの政変は、天皇と上皇の権力関係をめぐる対立でした。嵯峨朝には機密文書などを扱う蔵人所が設けられ、天皇に近い官人が政務を支えました。都の治安や裁判を担う検非違使も置かれ、律令に当初定められていない官が実務を補うようになりました。

仏教では最澄が比叡山を拠点として天台宗を広め、空海が高野山を拠点として真言宗を広めました。唐で学んだ教えは、国家や貴族の保護と結び付きながら寺院と儀礼を変えました。漢文学と密教が盛んな弘仁・貞観文化は、宮廷が中国の学問と仏教の新しい知識を取り入れた文化です。最澄と空海は同じ時代に活動しましたが、宗派と拠点、教えの広め方は異なりました。

藤原北家と摂関の役割

藤原北家は天皇との婚姻関係を築き、皇位継承にも関わりました。清和天皇の時代には藤原良房が皇族以外で初めて摂政となりました。摂政は幼い天皇に代わって政務を行う職です。良房の養子藤原基経は、宇多天皇の時代に関白として政務を進めました。成人した天皇を補佐する関白も、天皇の外戚として影響力を持つ藤原氏の地位と結び付きました。

866年の応天門の変では大伴氏らが失脚し、有力氏族の勢力関係が変わりました。宇多天皇の時代に重用された菅原道真も、醍醐朝には大宰府へ左遷されました。官人の昇進や天皇との関係をめぐる競争が、氏族間や人物間の政争になったのです。醍醐天皇の時代には藤原時平らが延喜式の編纂を進め、律令の施行細則を整えました。側近や摂関の力が増しても、法と官司による行政は続いていました。

道長・頼通と国風文化

藤原道長は娘を天皇の后とし、一条天皇の時代などに勢力を強めました。次の藤原頼通も長く摂政・関白を務め、宇治に平等院を造営しました。藤原氏が天皇の外祖父や外戚となる仕組みは、婚姻と皇子の誕生に支えられていました。同じ地位に就いても、天皇との血縁関係や皇位継承の状況によって政治的な立場は変わりました。

宮廷では国風文化が展開し、仮名を用いた文学や和歌が発達しました。醍醐天皇の時代には紀貫之らが古今和歌集を編纂しました。一条朝の紫式部は藤原彰子に仕えて源氏物語を、清少納言は藤原定子に仕えて枕草子を書きました。后の周辺に集まった人々と文学活動は、貴族の家の勢力や宮廷での交流とも結び付きました。漢文学が消えたのではなく、複数の表現方法が使われていました。

宮廷の女性が仮名を使って物語や日記を書く一方、官人の仕事や学問では漢文も使われました。表現の方法は、書く人の立場と文章の目的によって異なったのです。文学者を后の周辺へ集めることは、文化活動だけでなく、その家の教養や宮廷での人間関係を支えました。道長の娘彰子と定子の周辺で作品が生まれたことは、政治の家の競争と文化の場が重なっていたことを示します。文字を用いて経験や感情を伝える作品は、法令や国家の歴史書とは違う宮廷生活の記録を残しました。

民間交流・受領と浄土信仰

894年、菅原道真は遣唐使の派遣中止を提言しました。唐の情勢などを受けて国家の使節派遣が中止されても、海を渡る商人の活動は続きました。のちには宋との民間交流も進み、物資や知識がもたらされました。国風文化は外国との関係が途絶えたために生まれた文化ではなく、それまで受け入れた知識を基盤に、宮廷の生活に即した表現が発展したものです。

地方では、任国の実務を掌握する国司の最上席者である受領が徴税などを担いました。都の貴族の生活は地方の収入と結び付き、土地の権利をめぐる関係も変化しました。信仰では念仏や極楽往生を求める浄土信仰が広まり、源信の往生要集は極楽と地獄を描いて人々の関心を集めました。貴族の寺院造営や文学にもその願いが表れ、次の院政期へ続く社会と信仰の基盤となりました。

一問一答

問題一覧を開き、答えの帯を押すと答えが出ます。

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  1. 1
    桓武天皇の時代、794年に遷都された都は何か。
    平安京
  2. 2
    桓武天皇の時代、東北の軍事行動を進め、征夷大将軍となった人物は誰か。
    坂上田村麻呂
  3. 3
    桓武天皇の時代、東北で朝廷軍に抵抗し、のち降伏した蝦夷の指導者は誰か。
    阿弖流為別解:アテルイ
  4. 4
    桓武天皇の時代、軍団兵士制の縮小に伴い、郡司の子弟などから採用された兵士は何か。
    健児
  5. 5
    桓武天皇の時代、国司の交代の際に事務の引継ぎなどを監督するために置かれた官は何か。
    勘解由使
  6. 6
    嵯峨天皇の時代、810年に平城上皇側の動きによって起こった政変は何か。
    薬子の変別解:平城太上天皇の変
  7. 7
    嵯峨天皇の時代、天皇の側近として機密文書などを扱わせるため設けられた官司は何か。
    蔵人所
  8. 8
    嵯峨天皇の時代、平安京の治安や裁判を担当するため置かれた官は何か。
    検非違使
  9. 9
    平安時代前期、比叡山を拠点に天台宗を広めた僧は誰か。
    最澄別解:伝教大師
  10. 10
    平安時代前期、高野山を拠点に真言宗を広めた僧は誰か。
    空海別解:弘法大師
  11. 11
    平安時代前期、漢文学や密教が盛んだった文化を二つの年号から何というか。
    弘仁・貞観文化別解:弘仁貞観文化
  12. 12
    清和天皇の時代、皇族以外で初めて摂政となった藤原北家の人物は誰か。
    藤原良房
  13. 13
    宇多天皇の時代、関白として政治を進め、良房の養子でもあった人物は誰か。
    藤原基経
  14. 14
    清和天皇の時代、866年に大伴氏らの失脚につながった事件は何か。
    応天門の変
  15. 15
    宇多天皇の時代、遣唐使の派遣中止を提言し、醍醐朝に大宰府へ左遷された人物は誰か。
    菅原道真
  16. 16
    醍醐天皇の時代、藤原時平らが編纂を進め、律令の施行細則をまとめた法令集は何か。
    延喜式
  17. 17
    平安時代、幼い天皇に代わって政務を行う職は何か。
    摂政
  18. 18
    平安時代、成人した天皇を補佐して政務を行う職は何か。
    関白
  19. 19
    一条天皇の時代などに勢力を強め、娘を天皇の后として藤原氏の政治を進めた人物は誰か。
    藤原道長
  20. 20
    後一条天皇の時代などに長く摂政・関白を務め、宇治に平等院を造営した人物は誰か。
    藤原頼通
  21. 21
    平安時代中期、仮名文学などが発展し、日本の風土や宮廷生活に即して展開した文化は何か。
    国風文化
  22. 22
    醍醐天皇の時代、紀貫之らが編纂した最初の勅撰和歌集は何か。
    古今和歌集別解:古今集
  23. 23
    一条天皇の時代、藤原彰子に仕え、『源氏物語』を著した人物は誰か。
    紫式部
  24. 24
    一条天皇の時代、藤原定子に仕え、『枕草子』を著した人物は誰か。
    清少納言
  25. 25
    平安時代中期、念仏や極楽往生への願いを中心に広まった信仰は何か。
    浄土信仰別解:浄土教
  26. 26
    平安時代中期、『往生要集』を著し、極楽と地獄の描写で往生への関心を高めた僧は誰か。
    源信別解:恵心僧都
  27. 27
    平安時代中期、任国で徴税などの実務を掌握した国司の最上席者を一般に何というか。
    受領
  28. 28
    桓武天皇が平安京へ都を移した年は何年か。
    794
  29. 29
    宇多天皇の時代、菅原道真が遣唐使の派遣中止を提言した年は何年か。
    894
  30. 30
    清和天皇の時代に応天門の変が起こった年は何年か。
    866

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