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織豊政権の一問一答と流れの解説

全国統一と土地・身分政策、対外政策と桃山文化をたどります。まず流れの解説を読み、一問一答(30問)と、用語から説明を選ぶ4択で確認します。

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流れの解説

信長の京都進出と対立

1568年、織田信長は足利義昭を奉じて京都へ入りました。将軍を擁立する立場から政治へ関わりましたが、義昭と信長の関係は対立に変わり、1573年には第15代将軍義昭が京都から追放されました。信長は比叡山の延暦寺を1571年に焼き討ちするなど、敵対する寺社や大名とも戦いました。寺社は信仰の場であると同時に土地や軍事力を持ち、政治上の勢力でもありました。

1575年の長篠の戦いでは、織田・徳川の連合軍が武田勝頼を破りました。軍事力を集めるには装備の生産や輸送、城や交通路の確保が必要でした。信長は1576年に安土城の築城を始め、政治と軍事の新たな拠点としました。楽市・楽座は座の特権や市場の制限を取り除く政策で、商人や職人を集め、領国の流通と収入を支える狙いがありました。

秀吉が主導権を握る過程

1582年、明智光秀が京都で信長を襲い、本能寺の変が起こりました。羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を破り、1583年には賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破りました。信長の死後の権力はそのまま一人に継承されたのではなく、家臣たちの軍事的・政治的な競争によって再編されました。秀吉は勝利を重ね、信長の旧領や家臣との関係を自らの政権へ組み込みました。

秀吉は1585年に関白となり、翌年には太政大臣となりました。朝廷の官職や権威も全国の大名を従わせるために利用しました。1587年に京都へ造営した聚楽第には後陽成天皇を迎えました。惣無事令は大名間の私的な戦争を禁じ、秀吉の命令に従うことを求めました。1590年の小田原攻めで後北条氏が滅び、各地の大名を服属させる全国統一の体制が整いました。

検地・刀狩と身分

太閤検地では田畑の面積、収穫高、耕作者などを調べ、検地帳へ記録しました。土地の生産力を米の量で表す石高制は、年貢や軍役を割り当てる基準になりました。土地に重なる権利を整理し、誰が耕し、誰に年貢を納めるかを把握することは、政権と大名の収入を安定させるために必要でした。地域ごとの慣行を残しつつも、共通する物差しで土地をつかむ方向が強まりました。

1588年の刀狩令は農民から武器を取り上げる命令です。土地の調査と身分の統制を合わせることで、武士は軍役、農民は耕作と年貢を担うという区分が強まりました。この兵農分離は一つの命令だけで完了したものではありません。武士の城下への集住や移動の規制などと重なって進みました。軍事力を担う人々と、年貢を生産する人々を分けて把握する仕組みは、江戸時代の支配にもつながりました。

検地帳は年貢を求める根拠となり、土地の権利をめぐる争いを裁く際にも利用されました。大名へ領地を与える政権の側も、石高をもとにその生産力を把握できました。農民の耕作を継続させることは、大名の収入と軍役の履行を支える条件でした。一方、武士を領主のもとに集めると、城下で消費する食料や日用品を供給する商業が必要になります。土地の調査と身分の区分は、農村だけで完結する政策ではなく、城下町と領国を結ぶ経済の仕組みも変えていきました。

海外政策と政権の継承

1587年、秀吉は九州でバテレン追放令を出し、宣教師の退去を求めました。海外貿易への関心を持ちながら、領国内に広がる布教を統制しようとしたのです。1592年の文禄の役、1597年の慶長の役では、朝鮮へ軍を送りました。朝鮮側の抵抗と明の援軍、補給の問題によって戦争は長引き、現地の人々と動員された兵士に大きな負担を与えました。

秀吉の晩年には徳川家康ら五大老が政権の合議に関わりました。秀吉の死後、朝鮮にいた軍は撤退し、国内では有力者の対立が強まりました。全国を服属させた政権でも、後継者と有力大名の関係を調整しなければ支配を維持できません。統一政策が土地や身分の制度を残す一方、豊臣氏の権力の継承は別の問題として進みました。

城郭と桃山文化

織田・豊臣政権期の桃山文化には、豪壮な城郭や障壁画が見られます。城は軍事施設であるとともに、政権の力を示し、家臣や客を迎える場所でもありました。狩野永徳の唐獅子図屏風などは大きな空間を飾り、長谷川等伯の松林図屏風は水墨の表現を用いました。同じ時代でも、作品の材料や表現、置かれる場所は一様ではありませんでした。

千利休は堺の商人の文化を背景に、わび茶を大成し、秀吉にも仕えました。茶の湯は道具の鑑賞だけでなく、武将や商人が会う場として政治や商業とも結び付きました。城郭や絵画、茶の湯は有力者の保護によって発展しましたが、それを作り支えた職人や商人の活動も必要でした。統一政権の文化には、軍事と政治の中心へ都市の技術と交流が集まる関係が表れています。

一問一答

問題一覧を開き、答えの帯を押すと答えが出ます。

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  1. 1
    1568年、足利義昭を奉じて京都に入った尾張出身の武将は誰か。
    織田信長
  2. 2
    1573年、織田信長によって京都から追放された室町幕府の第15代将軍は誰か。
    足利義昭
  3. 3
    1571年、織田信長が焼き討ちした、比叡山にある天台宗の寺院は何か。
    延暦寺
  4. 4
    1575年、織田・徳川の連合軍が武田勝頼を破った三河国の戦いは何か。
    長篠の戦い別解:長篠合戦
  5. 5
    織田信長が1576年に築城を始めた、琵琶湖に近い城は何か。
    安土城
  6. 6
    16世紀後半、織田信長らが座の特権や市場の制限を取り除いた商業政策は何か。
    楽市・楽座別解:楽市楽座
  7. 7
    1582年、織田信長が京都で家臣の攻撃を受けて死去した事件は何か。
    本能寺の変
  8. 8
    1582年、京都で織田信長を襲った家臣は誰か。
    明智光秀
  9. 9
    1582年、羽柴秀吉が明智光秀を破った京都南西の戦いは何か。
    山崎の戦い別解:山崎合戦
  10. 10
    1583年、羽柴秀吉が柴田勝家を破った近江国の戦いは何か。
    賤ヶ岳の戦い別解:賤ケ岳の戦い
  11. 11
    1585年に関白となり、翌年に太政大臣となって全国統一を進めた人物は誰か。
    豊臣秀吉別解:羽柴秀吉
  12. 12
    豊臣秀吉が1587年に京都に造営し、後陽成天皇を迎えた邸宅は何か。
    聚楽第
  13. 13
    16世紀後半、豊臣秀吉が全国的に進め、田畑の面積や収穫高、耕作者を調べた土地調査は何か。
    太閤検地
  14. 14
    16世紀後半、豊臣秀吉の土地調査で、田畑の生産力を米の収穫量で表した制度は何か。
    石高制
  15. 15
    16世紀後半、豊臣秀吉の土地調査で、田畑の耕作者や石高などを記した帳簿は何か。
    検地帳
  16. 16
    1588年、豊臣秀吉が農民から武器を取り上げるために出した命令は何か。
    刀狩令別解:刀狩
  17. 17
    16世紀後半、豊臣秀吉の土地調査や武器の取り上げなどによって進んだ、武士と農民の身分・居住を分ける動きは何か。
    兵農分離
  18. 18
    16世紀後半、豊臣秀吉が大名間の私的な争いを禁止し、統一を進める根拠とした命令は何か。
    惣無事令別解:総無事令
  19. 19
    1590年、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした関東への軍事行動は何か。
    小田原攻め別解:小田原征伐、小田原の役
  20. 20
    1587年、豊臣秀吉が九州で出した、宣教師の国外退去を求める命令は何か。
    バテレン追放令別解:伴天連追放令
  21. 21
    1592年、豊臣秀吉が始めた最初の朝鮮侵攻は何か。
    文禄の役別解:壬辰倭乱
  22. 22
    1597年、豊臣秀吉が再び始めた朝鮮侵攻は何か。
    慶長の役別解:丁酉倭乱
  23. 23
    16世紀後半、豊臣秀吉の晩年、徳川家康ら有力大名が合議に参加した政権の役職は何か。
    五大老
  24. 24
    16世紀後半、織田・豊臣政権期、豪壮な城郭や障壁画に特徴がある文化は何か。
    桃山文化別解:安土桃山文化
  25. 25
    16世紀後半、織田信長や豊臣秀吉に仕え、唐獅子図屏風などで知られる絵師は誰か。
    狩野永徳
  26. 26
    16世紀後半、豊臣秀吉の時代、松林図屏風を描いた能登出身の絵師は誰か。
    長谷川等伯
  27. 27
    16世紀後半、豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成した堺の茶人は誰か。
    千利休別解:千宗易
  28. 28
    16世紀後半、織田信長が本能寺で死去した年は何年か。
    1582
  29. 29
    16世紀後半、豊臣秀吉が刀狩令を出した年は何年か。
    1588
  30. 30
    16世紀後半、豊臣秀吉が小田原攻めで後北条氏を滅ぼした年は何年か。
    1590

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